障害者の撮影
障害者個人の撮影と、障害者施設での撮影に取り組んでいます。
施設撮影は(可能な場合のみ)施設の近くで展覧会を行い地域住民に見ていただきます。障害者と住民との交流が目的です。
いろんな方との出会いをたのしみながら撮影しています。
出会いのなかで障害者写真集も発行できました。
撮影にご協力いただける方はご連絡ください。無料です。
<「生産性」と障害者>
2016年7月26日の障害者殺傷事件をメディアが大きく報道しましたが、そのわりに大事なことが語られていないと思いました。
重要なのはセキュリティーの問題でなく、事件が起こらなければそれで済んだわけでもありません。
社会のなかで経済的利益を生みだす「役立つ人」がすぐれていて、障害者や病弱者、高齢者、低所得者、子供を生まない女性たちなど、生産性(?)の低い人や欲のない人は社会のお荷物であるかのような風潮が強まっています。
そしてそれを助長するかのように格差を広げる社会制度(法律やその運用)の劣化が強まってきました。
そのことに深刻な危機感と日常的な怖さを感じます。
人は人とかかわることで、たくさんのことに気づきます。障害者との関わりがある人とない人は感じ方が大きく異なると思います。
障害者の写真が、直接でなくても障害者の人たちに触れるきっかけになることを願っています。とくに身近で障害者と接する機会がない方に写真を見ていただきたいです。
オリンピックの影響でテレビ等で障害者が注目されるようになりましたが、私の撮影ではオリンピックに出るすごい人や、バリバリ社会で活躍している人でなく、わたしたちの身近に暮らしておられる障害者に注目したいです。
<障害者の表記>
障害者の撮影に取り組むと難しい問題に直面します。その一つが表記の問題です。
私のWEBサイトは「障害者」というカテゴリーにしています。この直接的表現に疑問を持たれる方もおられます。
撮影の目的は、障害があろうとなかろうと、一人の人間としての魅力を伝えることです。
しかし現在障害者が直面している問題を考えると、まず「障害者」ということを明確に示し、写真を見る人に「この人は障害者である」と意識してもらうことから始まり、そして写真を見ていただくことによって、理解が広がると考えています。
障害者が障害者という言葉をどう受け止めるか、ということも多様です。アメリカでは、「障害がある○○さん」という表現から、直接的に「障害者」という表現を自身のアイデンティティーとして選ぶという考え方に変わりつつあるそうです。
障害の症状だけでもさまざまですが、重さ軽さもさまざまです。後天、先天の違いもあります。他の障害と重複する方も多いです。
一人ひとりの個性、考え方や価値観、障害に対する考え方もさまざま。実に多様でゆたかな存在です。
それを一括りに表記してしまうことに抵抗はありますが、試行錯誤しながら、言葉を選んでいきたいと思っています。
もうひとつ恐さを感じているのは表現規制の動きです。一人ひとりが自由に考え、自由に表現することが徐々に難しくなってきています。日本全体が全体主義的な雰囲気が濃くなっています。
障害者の表記についても、「害」という漢字を使わないという自粛がかなり広がっていて、逆にその漢字を使いたくても使えないような「空気」が生じています。
別に「害」を使ってはいけないという決まりはないのに、指摘されることが多くあります。
私はそのような無自覚な表現規制(他者への抑圧)と、障害者に対する社会的な不寛容が、実はどこかでつながっていると思っています。あえて「害」という漢字を使い続けたいといまは考えています。
<障害者の存在感>
障害者に対し、「健常者となにも変わらない」という感覚の人もいれば、排他的な考えの人もいます。障害者に対する認識はさまざま。
わたしはこんな風に意識しています。
*人としては同じだけど、違う面もある。能力面ではできないことも多いけど、逆に優れていると感じることがある。優れた能力に感心することもあるけれど、それだけでなく障害そのものが持つ力がある。
*障害者は強い存在感や力をもっている。人に対して与える力(人によって知性だったり、身体能力だったり、また癒しだったり)が強いと感じることが多い。
*さまざまな困難を抱えながら生きてきた障害者とその家族の存在が、わたしに「人に対する希望」を抱かせてくれる。
*誰とも違う人生を生きてきた人からは、教えられることが多い。
以前、テレビのドキュメントで、障害者施設で働く人がこんな内容のことを語っていました。
<障害者とかかわりのなかで、なにかを汲み取れる人は、厳しい仕事だけれど大きなよろこびを見出すことができ、そうでない人は10年20年仕事をしてもしんどさを抱き続けるだろう>。
これは障害者に限らず、他者一般に共通すると思います。
障害者に対してだけでなく、他者に対して私たちがどうありたいか常に問われています。「私」にとって「他者」とは?
それは私たち自身の幸福感と密接だと思います。
2016.12